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  • 古希のテーマ色「紫色」

    【紫色と古代フェニキア】

    エジプトのミイラ中国や日本では、紫色を植物染料から得ていましたが、古代フェニキアでは貝から染料を取っていました。
    アクキガイ科の貝の内臓には、パープル腺という特殊な腺があるのですが、これを取り出して太陽に当てると黄色から赤味がかった紫色に変化します。
    地中海沿岸では紀元前1600年頃からこの染色技術が発達しましたが、わずか1グラムの色素を得るために2000個もの貝を必要としました。
    そのため、紫色は、非常に貴重な色だったのです。そのため紫色は、ティリアン・パープルやロイヤル・パープル(帝王紫)と呼ばることになりました。ギリシャ・ローマ帝国では皇帝や貴族にしかその使用は許されなかったそうです。伝説によると、シーザーが暗殺されたあと、跡を継いだアントニウスはエジプトに帰っていた女王クレオパトラを呼び寄せましたが、そのときクレオパトラを乗せた船の帆は、この貝紫で染められていたといわれています。

    【紫色と古代中国】

    中国の風景紫色は、後漢時代の字書『設文解字』によると「帛(ハク:絹の布)の青赤色なるものなり」とあります。つまり、青と赤の間色であるということですね。そして、古代中国の五行思想の中の五色「青、赤、黄、白、黒」という正色には紫が入っていません。しかし『論語』には「紫の朱を奪うを悪む」という言葉があります。これは「(赤と青を混ぜた色である)紫が、朱の美しさを奪うことを私は憎む」という意味です。さらに「こずるいだけで、表層的な弁論が、国家を転覆させることを憎む」という言葉に続きます。正色である「赤」を「紫」がおびやかす、ということで国家の転覆を示唆しているわけですね。逆に言えば、紫色は人気があり、人々が好みやすいということなのでしょう。

    さらに古代からも、紫は好まれていました。漢の武帝は、こよなく紫を好んでいました。そして、紫色を天帝の色とし、他の者の使用を禁ずる「禁色」としました。さらには、みずからの住まいを紫宸(シシン)、紫極(シキョク)と呼びました。以来、中国では紫が最高位の色となったというわけです。

    一方、西洋でも、紫は好まれていました。フェニキアという国では、貝の腺から紫色を作っていました。ひとつの貝からわずかな量しか取れないことや紫色が妖艶な色合いを見せることから、たいへん珍重されました。そして、地中海のギリシャ・ローマ帝国の帝王に愛され、彼らの衣服の象徴的な色となっていきました。それが帝王紫(ロイヤル・パープル)といわれるものです。こうして紫は、洋の東西を問わず、高貴な色として、なっていったのです。

    【紫色と日本】

    聖徳太子が、打ち出した政策に冠位十二階の制があります。この仕組は、個人の能力や功績に応じて、冠位をあたえて、広く人材を登用しようとした制度でした。そして、その位を12の段階にし、それぞれの位を服飾によって色分けしました。これは、隋の制度を見習ったものですが、その中で、紫色は一番上位に位置づけられました。

    こうした制度だけではなく、万葉集や古今集にも、紫色は多く歌われ、愛されてきました。平安時代には、武蔵野に紫草の栽培園がつくられ、名所となっていたことが知られいます。また『源氏物語』では、光源氏の最愛の人に名前にも「紫の上」という名前がつけられていましたよね。

    さらに『枕草子』には「すべてなにも紫なるものはめでたくこそあれ 花も糸も紙も」とあります。「何にしても紫色は素晴らしい。花でも糸でも紙でも」という意味です。紫色がどれほど好まれていたかが、よくわかります。

    そびえ立つ城時代が下り、戦国時代になっても、武将も紫色を好んでいたようです。上杉謙信の衣装は、肩と袖が紫で染められていました。紫草を相当な量を使って染めて織り上げられたものが残されているのです。豊臣秀吉や徳川家康の衣装にも紫色の「辻が花染」が残されています。

    また、江戸時代になると、歌舞伎にも使われ、「助六」の主人公が頭に巻いた紫の鉢巻き姿あります。それは「江戸紫」と呼ばれ、京都の赤系の紫に対して、青みがかった紫でした。

    【古希と紫色】

    聖徳太子の時代、冠位十二階では紫色が最上位の色でした。さらに最高位の僧侶しか、紫の衣を身につけることができないという慣習もあります。ローマ帝国でも、皇帝がティルス紫で染めた礼服を使ったことなど、世界的にも紫色は高貴な色として用いられていたようです。もともと染料を得ることが困難であったため、紫色は貴重な色とされてきました。このような背景があり、紫色は品位や高貴さ神秘性をあらわす色とされるようになりました。そうして、長寿の方への尊敬や今後の健康を祈る表現として、紫色を長寿のお祝いとして用いられるようになったと考えられます。

    【紫色の原料】

    「紫」はもともとムラサキ(紫草)という植物の名前でした。この植物の根(紫根)から、紫色の染料を採取していたのです。そのため、得られた色も「紫」と呼ぶようになったというわけです。

    ムラサキという言葉自体は、紫草が群生する植物であることが語源となっています。「群(むら)がって」と「咲く」ということです。ちなみに紫草の花は白色です。

    また紫草の栽培が当時の技術では困難だったために、紫草は珍重されました。古代の中国、律令時代の日本などでは、紫は高位を表す色とされ、主に皇族やそれに連なる者にしか使用を許されなかったのです。

    【パープル】

    ラテンの原点、ローマ「紫色」を英語で言えば、パープル purpleですね。もともとこの単語は、巻貝の一種プループラ purpura(ラテン語)に由来しています。

    この巻貝の出す分泌液が染色の原料とされ、結果としてできた色もpurpuraと呼ばれたのです。紫草と似ていますね。この染色法を発明したのは現代のイスラエルやレバノンの地域に住んでいた古代のカナーン人であるといわれています。巻貝1個から出る分泌液はわずかであったため、西洋でも、紫色は高貴な人しか身につけられなかったのです。

    またパープルは、紅みがかった紫を指す語で、日本で言う所の「京紫」です。例えば、怒って顔を紅くすることを、英語では turn purple with rage と表現する。細菌学においても、パープルは「紫」ではなく red(紅)を指しています。

    【バイオレット】

    紫色を示す言葉で、しばしばパープルに代わり、バイオレット violetという言葉があります。アイザック・ニュートンの定義による虹の7色のうちで、短波長側の色である紫色を英語ではバイオレットと呼んでいます。この”violet”は本来スミレを意味する単語であり、菫色(すみれいろ)と訳すのが正確である。実は、パープルは赤味の強い紫なのに対し、バイオレットは青味の強い紫であり「江戸紫」に似ています。

    【二藍】

    藍染日本の染色の技術は、五世紀、大和の国にようやく統一政権が誕生した頃に、進歩しました。中国および朝鮮半島との交流が盛んになったおかげで、染色の技術が飛躍的に発展したのです。『日本書記』にも、応神天皇三十七年に、高度な錦を織る技術者を派遣してくれるように中国に要請してた、と記されています。

    染色の技術は、呉の国から伝わったと言われており、呉の国がなくなったあとでも「呉」は「中国」という意味で使われました。そのため、中国から伝わったものは時代に関係なく「呉」という言葉が冠されたりしているのです。

    例えば、染色ための紅花を「呉の藍」すなわち呉の国からやってきたということで「くれのあい」と呼んでいます。ちなみに、赤い色を出す染料であるのに、呉藍、紅藍と「藍(青色)」という語を用いるのは、藍が染料を総称する言葉であったためです。そうしたことから、蓼藍(青)と呉藍(紅花、赤)という二種類の藍(染料)を掛けてあらわす紫系の色を、二藍(ふたあい)と呼称するようになりました。

    また、染色をする手順では、必ず藍(青)を先に染めてから紅花(赤)の染液に浸けなければなりません。なぜなら、紅花は、藍甕のなかの藍のように、木炭が入ってアルカリ性になっている染料の中に入れると、色素を放出してしまうからです。

    そのため、まずは藍を所定の色に染め、紅花を重ねることによって紫の明度を加減していくのです。したがって桔梗の花のような色は藍を濃く、紅花を薄くかけることによって渋い青紫の色を作っていきます。このような二藍は平安時代の人々にとってはある意味で流行色でもあったのでもありました。『枕草子』の三十二段で、清少納言は、法華八講などの様子や、公卿の衣裳などを回想して、こう言っています。


    「二藍の指貫(さしぬき)、直衣(のうし)、浅葱(あさぎ)の帷子(かたびら)どもぞ、すかしたまへる」。
    指貫や直衣などは当時の衣装ですが、それらに紫色が使われていたのですね。また「すかしたまえる」は「透き通っている」という意味ですが、紫の薄い色を示していたのでしょうか。あるいは、高貴な若者たちの美しさが、透き通るような瑞々しさを持っていたのかもしれませんね。




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